院長 豊 杏理をより知っていただくために


こんにちは、医院長の豊杏理です。
この度、私自身をもっとよく知っていただき、患者さまに身近に感じていただきたいので、私のヒストリーをかいてみました。読んでいただければうれしいです。



■ 幼少時代

先生が「赤ちゃんの生命力にかけるしかないですね。」と言われながら、切迫流産の危機をのりこえて、数か月の入院の末に1988年2月に誕生しました。
なんせよく寝る子で、ぜんぜん手がかからなかったみたいです。
藤井聡太さんも通っていたモッテソーリ教育をとりいれたナーサリースクールに入園してそこでの私のお気に入りのあそびは、ごますりと豆をはしでつかんでお皿に入れるということを一日中していた記憶があります。今思えばそのような一連の動作が今の手の器用さにつながっていたかもしれません。


 



■ 小学時代

幼稚園は年長さんからお受験があったので、雲雀ヶ丘小学校にはいってから、のびのびと小学校での生活を満喫していました。
5年生ごろになると学校の校風かまわりがまたもや受験という風がふきはじめたので、私もそろそろ参戦しようかと思ったのが六年生になったばかりでした。
大手の塾ではとても授業についていけなかったので、地元にある個人経営の塾に通いはじめました。そこで出会った平岡先生が、飴と鞭の戦法でくりひろげられる授業が楽しく、そしてつらかったのですが、成績がびっくりするぐらいあがり、志望校に無事に合格できました。

 



■ 中高時代

中高一貫まして、大学までいける関西第一中学校で、のらりくらりと中高学生時代を過ごしました。たくさんの友達にもめぐまれ、良い環境で楽しくすごさせてもらいました。
今思えば衛生面で大いに問題があるのですが、我が家の食卓には黄色い石膏模型が鎮座していました。その歯型を見ながら、「これどうしようかな?」と眺めながら食事をするがあたりまえの豊家のかわった食事風景でした。仕事をおわってからも患者のことが頭からはなれたかったようです。
高校3年の夏、我が家で家族会議がひらかれました。歯医者を目指していた兄に
致命的な弱点がみつかったのです。それは血、傷口さえみることができない。歯医者ではなく他の医療の道に進みたいと兄が父に懇願したのです。そこで父がわたしに「杏理どうや歯医者になるか?」わたしも何も考えずに「いいよ。お兄ちゃん。わたしなるわ。」といったものの、担任の先生に理系から文系にかわるということは前例があるけど、文系から理系大丈夫かなって心配されました。まあ、どっちにしてもいままでのらりくらりとやってきたから、初心にもどってあらためて勉強する覚悟をきめました。結果はあえなく惨敗。
卒業後、駿台予備校に通い、翌年日本大学歯学部に合格しました。


 



■ 大学時代

東京での一人暮らし不安でいっぱいでした。体力をつけるためには、体育会系のクラブにはいってみようとふと思いつき、太陽にあたって日焼けもしないスポーツを考え、そして自分の身長を生かせれるバスケット入部しました。
バスケットによりどんどん体力がついてきて、勉学、部活、バイトと充実した大学生活をおくることができました。学生時代が6年と長いので、学生時代にいろいろな場所、国にいってみようと思い立ち、バイトではいったお金はほぼ旅行につぎこみました。はじめは、ハワイやグアムといった日本語の通じる国だったのですが、途中からカンボジア、ベトナム、インドネシア、香港、韓国、トルコ、イタリア、スペイン、フランス等、貧乏旅行ではありますが、自分たちで計画して旅行したことは今でもいい思い出です。


 



■ 現在まで

卒後、大阪にもどり、大阪医科薬科大学口腔外科で臨床研修を修了しました。4月から口腔外科やインプラントの勉強をしようと思っていました。
そんな矢先、3月に父が急逝しました。まだまだ未熟な私が父の大事な患者さんを診ることなんてできないと絶望の境地でいると、私に救世主があらわれました。今、新大阪で開業されているなかむら歯科医院の中村先生が自分の同級生の先生方を招集してくださって先輩の先生がたの指導のもとで診療を継続するこができました。若干26歳で大阪でも最年少の医療法人の理事長に就任しました。大阪医科薬科大学の非常勤医師として在籍しながら、口腔外科の認定医を取得しました。また、父の診療所の診療を終えたのち、インプラント、補綴、形成なとの勉強会に参加して日々腕をあげれるように勉強しました。
患者さんが「医院長の娘さんだから大丈夫。すきにしてくれてよいよ。」と言われてうれしかったです。
これだけいろいろな症例をこなしてくると、どのように治療計画をたてれば患者さまに満足していただけるか自信をもって提案できるようになってきたと思います。父が診ていた患者さまも「これで安心だわ。先生が先に逝くってことがないから<笑」と言われて、「安心してください。最後まで診ますよ。4代目も誕生したし。」この東三国の地で一番歴史の古い愛される「医療法人豊歯科医院」をめざしていきたいと思います。